女妾とは?正妻や側室との格差と明治の制度廃止まで歴史の真相を徹底解説
かつての日本社会において、公然と存在が認められていた「女妾(めかけ)」。時代劇や近代文学の中では見聞きするものの、正妻や側室、あるいは現代の愛人と何が法的に異なっていたのか、その実情は教科書でも深く語られることは多くありません。特に明治初期には、国家の法制度として本妻と妾を同等に扱う驚くべき規定が敷かれていた歴史的事実が存在します。
男性の経済力や家父長制の権威を背景に形成されたこの制度の裏には、女性たちの深刻な身分格差、精神的苦悩、そして子どもたちの過酷な戸籍上の差別が横たわっていました。法制史料や当時の手記・統計記録を紐解きながら、女妾という存在の真実、正妻や側室との決定的な境界線、そして制度崩壊に至るまでの歴史的真相を詳細に検証します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:女妾(めかけ)は単なる不倫相手ではなく、かつては家や社会、さらには明治初期の国家法制によって公式に位置付けられた「公認の第二の妻」であった。
- 要点2:明治3年制定の「新律綱領」では一時的に「妻妾同等(二等親)」と定められたが、欧米列強の批判や近代化の流れを受け、明治31年の旧民法制定により法律上完全に廃止された。
- 要点3:手当相場や別宅生活の華やかさの陰で、妾やその子ども(庶子・私生児)には過酷な身分差別と相続格差が存在し、家父長制の歪みを象徴する構造的犠牲者でもあった。
【語源と定義】「女妾」の読み方・意味とは?側室や愛人との決定的な違い
「女妾」という言葉は、一般的に「めかけ」と読まれるほか、文献や文脈によっては「おんなめかけ」「じょしょう」とも呼称されます。語源や由来としては、有力者が特定の女性に「目を掛ける(特別に愛でる・世話をする)」という表現が転じた説や、「妻(め)の欠けた部分を補う存在(め・かけ)」に由来する説など複数の学説が知られています。
漢字の「妾」という字そのものは古代中国に端を発し、罪を得て身分を落とされた女性刑罰奴隷が主君に仕える姿を象った象形文字が原点です。これが日本に伝来する過程で、正妻以外の非公式または準公式な配偶関係にある女性を指す呼称として定着しました。
現代において混同されがちな「正妻」「側室」「女妾」「現代の愛人」の法的位置づけと実態を整理すると、下表のように明確な階層と役割の違いが浮き彫りになります。
| 区分 | 主な役割と位置づけ | 歴史的・法的な公認性 | 編集部の見解・格差の実態 |
|---|---|---|---|
| 正妻(本妻) | 家の祭祀、家政の統括、家格を維持する正統な配偶者 | 公的・法的に最高位の妻(一等親・戸籍筆頭配偶者) | 家の権威を体現する存在であり、妾に対して絶対的な優位権を保持。 |
| 側室(そくしつ) | 皇族・大名・公家などで血統(後継者)存続を担う公的制度 | 家臣団や儀礼空間(大奥など)で公認された身分 | 個人の愛欲ではなく「家の血統維持」という公的使命を背負う制度。 |
| 女妾(めかけ) | 財力ある男性が経済的扶養を対価に囲う準配偶者 | 明治初期は戸籍記載(二等親)。明治31年に完全排除 | 生活費や住居は保証されるが、契約解除(手切れ)のリスクと隣り合わせ。 |
| 現代の愛人 | 法的な婚姻関係外での私的な男女関係・不貞関係 | 一切の法的権利なし(民法上の不法行為責任を負う) | 公認性は皆無であり、露見した場合は損害賠償請求の対象となる。 |
側室が「大名家などの家組織の公的要請」として置かれたのに対し、女妾は武士のみならず豪商や富裕層、明治の高官にいたるまで、個人の財力によって私的に契約・扶養された点に最大の特徴があります。

【制度の変遷】明治政府が認めた「妻妾同等」の異常事態と廃止までの年表
日本の歴史において最も特異な転換点となったのが、明治維新直後の法制度です。明治3年(1870年)に制定された刑法典「新律綱領」において、明治新政府は「妾」を正式な親族として規定しました。しかもその親等順位は実親や実子と同じ「二等親」とされ、正妻と同格の法的身分を与えられたのです。
この「妻妾同等」の規定により、当時は戸籍謄本に「妾」として堂々と名前が記載される事態となりました。戸主が届け出を行えば、本妻の暮らす屋敷に妾を同居させることも法律上正当化されていた時代です。
しかし、この制度は近代国家を目指す日本にとって深刻な外交的・社会的摩擦を生むことになります。
- 1870年(明治3年):新律綱領の公布。妾を二等親と定め、法的な親族として戸籍記載を公認。
- 1880年(明治13年)公布 / 1882年(明治15年)施行:旧刑法の施行。フランス法学者ボアソナードの思想が反映され、刑法上における妾の特別条項や親族規定が段階的に削除。
- 1885年(明治18年):太政官指令により、戸籍法取扱手続において妾の戸籍記載が正式に停止。
- 1898年(明治31年):明治民法(旧民法)の施行。一夫一婦制が法制化され、妾制度は日本法制上から完全に廃止。
急速な廃止の背景には、不平等条約の改正を目指す中で、欧米列強から「一夫多妻的な野蛮な風習」と厳しく非難された外交的要因がありました。さらに福澤諭吉が著書『日本婦人論』などで「妾を置くは人倫の道に反する」と痛烈に批判したことや、キリスト教的倫理観を持つ知識人層による激しい廃妾運動が制度終焉を決定づけました。
【生活と手当の実態】歴史資料が明かす「妾の手当相場」と日陰のリアル
女妾の実態を知る上で欠かせないのが、経済的な契約関係です。江戸後期から明治期にかけて、有力者が妾を囲う際には「手当」と呼ばれる生活費の支給、住居の提供、そして関係を解消する際の一時金(手切れ金)が支払われるのが通例でした。
明治中期の経済史料や当時の風俗記録を精査すると、当時の一般的な手当の相場は以下のような水準で推移していました。
- 庶民・中堅商人クラス:月額5円〜10円程度(長屋の一角や小さな借家をあてがい、米や日用品を現物支給)。
- 高級官僚・大商人・政治家クラス:月額20円〜50円以上+独立した別宅(別邸)・車夫・女中付き。
- 手切れ金の慣例:手当の数か月〜数年分、または独立して商売(髪結い、小料理屋など)を営むための元手資金を提供。
明治20年代における警察官や小学校教員の初任給が8円〜9円前後であった事実を考慮すると、有力者の妾に支払われた月額30円という金額は、現代の貨幣価値に換算すれば月額50万円から80万円相当に匹敵する極めて高額な手当でした。
しかし、経済的な潤沢さと引き換えに強いられた生活環境は過酷を極めました。当時の手記や裁判記録には、正妻からの凄惨な嫌がらせ、近隣住民からの冷ややかな視線、そして主人の寵愛が薄れれば即座に路頭に迷う不安定さが克明に記録されています。「囲われ者」として外出の自由すら制限されるケースも珍しくなく、物質的な豊かさの裏には常に精神的な隷属がつきまとっていました。

【身分と戸籍の格差】「妾の子」はどのような扱いを受けたのか?
女妾を取り巻く制度の中で、最も深い傷跡を残したのが子どもたちの処遇です。家父長制の頂点に立つ家長(父親)が子を認知した場合、その子は戸籍上「庶子(しょし)」として記載されました。父親から認知されない子どもは「私生児(非嫡出子)」として扱われました。
明治民法下における身分と権利の格差は、極めて厳格に設計されていました。
- 相続分の差別:庶子の家督相続順位は嫡出子(正妻の子)より劣後し、財産相続においても正妻の子の「2分の1」と法律で明確に制限された。
- 母子関係の歪み:法律上、庶子は「正妻の養子」のような擬制関係に置かれ、生みの母親である妾を「母」と呼ぶことすら許されず、正妻を母として敬うことを強要された。
- 戸籍の刻印:戸籍に「庶子」「私生児」の文字が生涯にわたり記載され、婚姻や就職の際に根深い社会的偏見に晒された。
自身が産んだ我が子でありながら、法的には他人同然の立場に追いやられ、家長の後継ぎとして正妻のもとへ奪われていく悲劇が日常的に繰り返されていたのです。
一般に知られていない盲点とネットの誤解|「妾は贅沢で自由」という幻想の崩壊
ネット上の言説や創作物では、「妾は家政の重圧から解放され、贅沢三昧に暮らせる気楽な立場だった」という言説が散見されます。しかし、歴史的事実を検証すると、これは特権階級の極めてごく一部を誇張した誤解に過ぎません。
第一の誤解は、「経済的な永続性」に関する幻想です。正妻は家同士の婚姻契約によって法的に身分と生存権が保障されていましたが、妾の地位は完全に「男性個人の気まぐれ」に依存していました。病気、高齢化、あるいは主人の破産や急死によって手当が途絶え、困窮の末に行旅死亡人となった女性の記録が近代の警察統計にも残されています。
第二の誤解は、「側室と妾の同列視」です。大名家の側室は「奥」という厳格な統制組織に属し、身分に応じた格式と儀礼的序列が与えられていました。対照的に、街中に住まわされた妾は社会的な公的地位を持たず、正妻の親族や世間からは常に日陰者として蔑視される二重構造の中に閉じ込められていました。
【プロの結論】家族社会学と心理的バウンダリーから紐解く歴史の教訓
女妾という歴史的制度の本質を家族社会学の観点から分析すると、それは「家父長制の維持」と「経済的従属による心理的境界線(バウンダリー)の完全な喪失」が引き起こした構造的抑圧に他なりません。
男性側の経済力に命運を委ねざるを得ない関係性は、必然的に不均衡な共依存を生み出します。正妻は「家の名誉」に縛られ、妾は「生活の糧」のために自尊感情を削り、子どもは「血統の序列」によって引き裂かれました。誰一人として真の精神的自由を享受できないシステムこそが、妻妾制度の正体でした。
この歴史が現代に投げかける教訓は明快です。対等な人間関係を維持するためには、法的な権利の保障はもちろんのこと、個人の経済的自立と健全な心理的境界線が不可欠であるという点です。制度が消滅した現在であっても、経済力や力関係の非対称性に依存したパートナーシップがどのような破綻を招くか、歴史は雄弁に物語っています。

【女妾】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:女妾と側室、愛人はそれぞれ何が違うのですか?
A1:側室は大名家などで後継者確保のために置かれた公認制度、女妾は有力者が私的な手当により囲った準配偶者(明治初期は戸籍記載あり)、愛人は現代の法的公認が一切ない不貞関係という明確な違いがあります。
Q2:妾制度は具体的にいつ法律で廃止されたのですか?
A2:明治31年(1898年)の明治民法(旧民法)施行によって一夫一婦制が確立され、妾は法律上の親族関係および戸籍から完全に排除・廃止されました。
Q3:明治時代、妾の子は戸籍でどのように扱われていましたか?
A3:父親が認知した場合は「庶子」、認知しない場合は「私生児」と記載されました。正妻の子(嫡出子)に比べて相続分が半分に制限されるなど、法的な格差が存在しました。
まとめ:法制度の闇から見つめ直す現代の家族観と個人の尊厳
かつて日本社会に実在した「女妾」は、単なる色恋の産物ではなく、国家の法制度や家父長制の都合によって生み出された複雑な社会構造でした。明治3年の「妻妾同等」という驚くべき規定から、近代化と人権意識の高まりによって明治31年に完全廃止されるまでの軌跡は、日本の法制史における激動の縮図と言えます。
手当による豪奢な暮らしの裏にあった身分格差、子どもの処遇をめぐる悲哀、そして日陰の身としての苦悩。過去の制度の光と影を正しく理解することは、個人の尊厳と対等なパートナーシップが重んじられる現代社会の価値を再認識する重要な足がかりとなります。 (出典: 女妾(Yahoo!ニュース))